とんでいったふうせんは

  • 2020年3月23日
  • 2020年3月23日
  • 絵本

今日、私がアウトプットするのは、「とんでいったふうせんは」です。
ジェシー・オリベロスさんが書かれ、ダナ・ウルエコッテさんが絵を描かれ、落合恵子さんが訳された絵本です。

この絵本に出会う一週間くらい前に、わたしは、認知症と家族をテーマにした「長いお別れ」という邦画をみたんですが、この絵本は、その映画の内容や、認知症とはなんなのかということを、子どもが読んでも、とてもわかりやすいように絵本にしてくれています。

さきほど紹介した映画をみて、初めて知ったんですが、映画の題名にもなっているように、認知症は、別名「長いお別れ」とも言われているのだそうです。

この世にうまれてきてから、毎日毎日紡いできた、大切な人たちとの思い出、自分が記憶してきたこと。
その、大切な思い出たちと、少しづつ少しづつ、長い時間をかけてお別れしていく。
なんだか、まだ記憶があるものにとっては、長いお別れをしている途中の家族をみると、少しづつ少しづつ、どこか遠くのほうに・・・距離もはなれていってしまうように感じてしまう・・・・

(ここから絵本の内容にふれます)

この絵本は、ある家族の物語。
主人公のぼく、ぼくのおとうと、おとうさん、おかあさん、おじいちゃんが一緒に暮らしています。
この家族は、それぞれ、手にカラフルなふうせんを持っています(*^^*)
そのふうせんは、思い出。
一人ひとりが手に持っている、いろんな色のふうせんには、それぞれの大切な思い出の名シーンが刻まれています。
このふうせんを持っていれば、いつだって、その日のことをパーフェクトに思い出せちゃいます。
とうぜん、そのふうせんの数は、生まれたばかりのおとうとが、いちばん少ないくて、ながーく生きてきたおじいちゃんのふうせんの数が、いちばん多い。

主人公のぼくは、家族のみんなとは比べものにならないくらい、たくさんのふうせんを持っているおじいちゃんの、大切な思い出のはなしをきくのが大好きです。
ぼくが、「おじいちゃん、このふうせんのおもいでをはなしてよ」ときくと、おじいちゃんは、そのふうせんを、なつかしそうにながめながら、ぼくに、その思い出を話してくれます。

たとえば、きいろい風船には、ずっとむかし、おじいちゃんが子どもだった頃の友だちとの思い出がつまっています。
あおい風船には、ずっとずっとむかし、おじいちゃんが子どもだった頃にかわいがっていた犬のジャックとの思い出が・・・・
そして、むらさき色のふうせん・・・このふうせんは、おじいちゃんにとって、とてもとても大切なふうせん!
おじいちゃんとおばあちゃんが、ちいさな教会で結婚した日の思い出が、たくさんつまっています。
このむらさきの風船の思い出を話してくれる時のおじいちゃんは、いつもとってもやさしい笑顔になります。
おじちゃんは、ぼくと同じ色のふうせんも持っています。
それは、ぼくとおじいちゃんの同じ思い出の日のふうせん、・・・ぎんいろの風船です。
ぎんいろの風船の話をするとき、おじいちゃんは、
「このぎんいろの風船はとりわけ、お気に入りのやつさ!」といって、いつもぼくの髪の中に指をつっこんで、もじゃもじゃくしゃくしゃにします。
ぼくも答えます。
「ぼくだって、お気に入りだよ!」

・・・・でも、だんだん、おじいちゃんは、おんなじ話ばかりするようになってしまいます。
まるで、おじいちゃんの思い出のふうせんが、手から離れて、木の枝にひっかかたみたいになってしまいました・・・・
そして、一日一日、ひがたつにつれ、おじいちゃんのふうせんが、ひとつづつ、おじいちゃんの手をはなれて、空にとんでいってしまうようになりました。
ぼくは、おじいちゃんの大切なふうせんが、おそらにとんでいってしまわないように、ひっしでおいかけます・・・・だけど、つかまえることができず、おじいちゃんのふうせんが、おそらの向こうにどんどん小さく小さくなっていくのを、みおくるしかできませんでした。
おじいちゃんは、日を追うごとに、どんどん風船をとばしてしまいます・・・・
でも、とうのおじいちゃんは、じぶんの大切なふうせんたちが、とんでいってしまってることなど、きづいていません。

ぼくは、悲しくなって、ママとパパにたずねます。
「おじいちゃん、どうしちゃったの?ふうせんを、持っていられなくなってるんだ!」
すると、ママはぼくをまっすぐにみて答えてくれました。
「めずらしいことじゃないのよ・・・・としをとると、よくおきることなの」

そしてある日、ふたりの共通の大切な思い出のつまった、大切なぎんいろの風船まで、おそらにとんでいってしまいました。
その瞬間、ぼくは、おもわず、おじいちゃんに叫びます!
「なんでとばしちゃううの!ぼくたちのふうせんなのに!なんで?」
おじいちゃんは、ぼくの背中をかるくたたきながら、こたえます。
「ぼうや・・・どうしたんだね。かなしいことでもあったのかい?」
まるで、ぼくのことを知らないみたいに、まるで、よその子に言うみたいに・・・

そして、とうとう、おじいちゃんは最後のふうせんまでとばしてしまいました。
おじいちゃんの手には、もう、一個のふうせんも残っていません。
ぼくが、「おじいちゃん」とよんでも、もうふりむいてもくれません・・・・

・・・・でも・・・ふと、ぼくが、じぶんの風船をみあげると、いつのまにか・・・ぼくの風船がふえています・・・・
おじちゃんの思い出の風船が、とんでいってしまった風船が、ぼくの手のさきにたくさん・・・・
ママが言います。
「おじいちゃんの思い出のふうせんは、すべてあなたのものよ」

それから、ぼくは、おじいちゃんのひざのうえにのって、ぼくのものになった風船のはなしを、毎日おじいちゃんにお話しするようになったのです。

最初にもかきましたが、認知症という「長いお別れ」を、とてもわかりやすく、えがいてくれている絵本でした。
私の場合は、先にみた「長いお別れ」という映画の内容もあって、認知症は「思い出や、記憶というふうせんを、長い時間をかけてひとつづつ、ひとつづつ手放していくこと」という内容が、すっと心にはいってきて、すとんと理解できたように思えました。

長女と一緒に、読んだのですが、この絵本を読み終わった後で、はじめて「認知症」といわれる症状について、長女にはなしをしました。
小学校一年生の娘には、すべてを理解することはできないようでしたが、そういうこともあるんだなぁと、長女なりに、納得できたようでした(笑)
説明したあとには、「でも、せっかくあつめた、ふうせんがとんでいくのは、もったいないよねぇ~(*^^*)」と、なにか、真剣になにか考えているようでした(笑)。


このさき、私や、わたしのまわりの大切な人たちが、おなじ状況になったとき、かならずおもいだす絵本だとおもいます。
そうなってからより、そうなる前に出会えて良かったなぁとも思えました。

ひさしぶりの投稿でした。
コロナウィルスの影響で、小学校がお休みとなり、こどもたちと絵本を読む時間は、ぐんとふえましたが、パソコンにむかえる時間はぐんと減っちゃってます(笑)
ですが、こどもだちもいろんなことを我慢しながら、日々がんばってくれているので、大人にも現状いろんな心配事はありますが、わたしもへたることなく、がんばりたいなぁ・・・・・なんて笑

この先も、カラフルなおもいでのふうせんを、すこしづつふやしていけたらな・・・と思います。